妖精たちは遊ぶのを楽しんでいた
     
鈴木志郎康(詩人・映像作家)


『さなぎ~学校に行きたくない~』は、少女という存在の日常の行いを通して人が心の奥に持っている遊ぶ心をくっきりと見せてくれた。遊ぶ心が大切なのだ。草が生えている坂の斜面に寝ころんで何度もごろごろ転がって喜んでいる。捨てられたマイクロバスの錆びた車体の上にのぼってこわごわとダンスする。そういう少女たちの姿を見ているうちに、この子たちは妖精だと思った。そして突然、妖精には学校は必要ないのだと考えた。少年も少女も本質的には妖精なのだ。しかし妖精のままでは人間の社会では生きられない。そこで妖精の人間化を計るシステムが学校というところなのだろう。人間化が一辺倒に進められると歪みが出てきてしまう。人間化しながら妖精を育む学校が出来ないものだろうか。

これまで誰もみたことのない「いのち」のおののき
芦沢俊介(社会評論家)

一つのいのちを取りまく溢れるくらい豊饒な豊富な水と大地、光はどこまでも澄んだ大気をきらめかし、樹木が風を誘っている。幾筋もの道がこれら自然の中を縦横に走り、そこを一緒に歩む3人の友がいて、家があって、そこにおろおろと見守る母がいる。こうした確かな自然に対立するかのように学校がある。
この対立のただ中に置かれたあいと名づけられた女の子が、不安にさいなまれつつも、3人という共同世界を得て、内なる自らのいのちの要請にしたがって少女へと、女へと力強く美しく変貌してゆくのだ。
三浦淳子監督は『空とコムローイ~タイ、コンティップ村の子どもたち』(2008年)に続き、またしても、これまで誰もみたことのない「いのち」のおののきを、繊細かつ大胆な自然の物語へと織り上げたのである。




命は複雑だけどシンプルだ
瀬々敬久(映画監督)



この世界がこんなにも輝きに満ちていて、生きる価値ある場所なのだと、
次々に発見していく少女たちの物語がなんとも素晴らしい。
そして何よりも、長い年月をかけた撮影は、子供たちの体が大きくなっていくということだけで、 奇跡の瞬間が今、目の前で起こっているのだと思わせ、こちらを嬉しくさせる。 命は複雑だけどシンプルだ。
女ソクーロフ、監督の三浦さんのことをこれから、そう呼ぼうと思っている。

品田雄吉(映画評論家)

『さなぎ~学校に行きたくない』は、とても気持ちのいい映画でした。
一人の女の子の成長が、優しい眼差しで見つめられています。
長い年月の「記録」なのに、作者の眼差しが少しもぶれていないのも、立派です。

増田良枝(フリースクール全国ネットワーク共同代表 
NPO法人越谷らるご理事長)


「不登校」をした女の子、愛ちゃんがいて始まる映画なのだけれど、「不登校」が問題だという話ではない。「不登校」を突き抜けて向こう側がみえてくる。
 愛ちゃんの「学校に行きたくない気持ち」に揺れる家族。だが、彼女を受け入れているなかよしの友だちと愛ちゃん自身を、やがて、母親が、祖母が、家族が、地域社会が受け入れて、みんなが伊那谷の自然の中で生を営んでいく。
子どもの世界の中心に学校が鎮座しているのではない、子どもの世界は子どものもの、不登校なんてちっぽけなこと。「学校に行きたくない」子どもの気持ちに共感できないおとなたちに対して子どもが不信感を持ってしまうという関係性が問題なのだ。
伊那谷という地域で築かれる人と人の関係がとても素敵。「空とコムローイ」も「さなぎ」も三浦監督の「いのちへの讃歌」だと、そんなふうに感じた。

 

伊勢真一(映画監督)
「寄りそうこと」

三浦さんの作品を初めて観せてもらったのは、もう15年程前、自作「奈緒ちゃん」がパリの映画祭に招かれた時だった。その場で上映された「孤独の輪郭」という三浦さんのおばあちゃんを、その孤独のぬくもりのような世界を描いた、とっても魅力的なドキュメンタリー映画が、最初の出会いだった。

以来、三浦さんはほとんど独力で、自主製作作品を創り続けて来た。地味な題材を、ねばり強く撮るのがその持ち味だと思う。

最新作の「さなぎ」も撮り始めてから10年以上の歳月をかけて
主人公に寄りそい完成させた、三浦さんならではの作品だ。
ドキュメンタリー映画は、何より寄りそうことで生まれて来る、濃密な空気感が勝負だと私は思う。離れた場所から「問題」を客観描写するのは、テレビのドキュメンタリーにまかせておけばいい・・・寄りそうことで「問題」というよりも、「人生」が「生きること」が「物語」が見えて来るのがドキュメンタリー映画の魅力だ。
「さなぎ」の主人公が不登校の体験を経て、次第に成長して行く姿を、そっと寄りそい見つめる三浦さんのカメラは、まるで生きものとしての人間をいとほしく観察している子どものようだ。
いのちの力、生きる力に驚きの眼差しを向け、じっと見つめ続けた記録・・・
「さなぎ」はおそらく、三浦さん自身の鏡であると共に、観客ひとりひとりにとっても、いのちあることの肯定間に充ちた鏡にちがいない。

寺脇研 (元文科省官僚・映画評論家)

この映画の中の時間が始まる1998年より少し前、わたしは当時務めていた文部省 (現・文部科学省)で不登校の問題を考える仕事をしていた。
わたしの仕事のテーマである「生涯学習」という観点からすれば、不登校=悪と いう考え方はおかしい。 にもかかわらず当時の文部省や教育委員会や学校や多くの親は子どもの不登校を 容認できず、そうした子どもたちを苦しめていた。

『さなぎ』を観ればわかるだろう。
学校でなくても、子どもは学習しているのだ。 学校だけが学習の場ではないのに、子どもは学校教育に適応しなければならないと世の中は決めつける。その決めつけが、どれほど子どもの学ぶ意欲を 傷つけているか。 愛ちゃんが学校に通うようになっても、映画は学校での学びを映そうとせず、家 庭や地域でいきいきと学ぶ姿を描き続ける。
不登校=悪という考え方を日本の学校教育全体からなくしていく過程の中で、わたしは多数の不登校の子どもたちと会って話した。
ちゃんと学ぶ意欲を持っている彼らが、学校へ行けないという理由だけで異端扱いされる筋合いはない。
愛ちゃんは、周囲の理解を得て自分の夢と意思をしっかり持った若者に育っていく。人間は学校教育の力だけで成長するわけではないのだ。


 
             
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